生命とはなにか

 そもそも生命の定義ができるものでしょうか。科学は悩ましくこの問題を扱っていますが、ここでは日常の常識に沿って考えてみました。「悩ましく」という意味は、生命と非生命の間が、そんなに劃然と分離されていないという事です。鉄の釘と、細菌の間に、まだ、おかしな存在があるのです。今、話題になっているエボラ出血熱「ウィルス」や、更にその「もどき」であるウィロイドがあります。

 生命と非生命を区別する特徴に「成長」という特徴を挙げられると思います。「新陳代謝」と言っても良いかと思います。未来永劫に変化することのない鉄くぎと違って、生命は成長します。鉄釘だって錆びて、風化して、変化するだろうという意見もあるでしょうが、生命は熱力学的エントロピーを減少させて変化しています。鉄くぎはそうではありません。

 もう一つの生命の特徴に「生殖」があります。子孫を残すことができるのです。

まだ他に科学的定義としての条件はあるのですが、私たちが日常みている特徴は、この2つに尽きるでしょう。食事をするは、成長の一過程ですし。

 さて、生命も物質にすぎません。単なる非生命であった物質が、ある時、何かの拍子である物質になった途端、この二つの性質を手に入れたのでしょう。鉄や金のような単純な物質である元素ではなく、炭や、水素、窒素、酸素などが水中で太陽の光によって化学反応を起こし、核酸やタンパク質と呼ばれる物質になったところで成長し、増殖する化学物質が生まれ、私たちはそれを生命と呼ぶことになったのでしょう。

 ところで、ウィルスと細菌はどちらも病原体ですが、ほとんどの人がこの区別を知らないと思われます。ウィルスは、成長しているか?生殖(増殖と同じではないのでしょう)するか?しないのではないでしょうか。ウィルスはたばこモザイク病を起こすたばこモザイクウイルスが初めて結晶として取り出されました。もう何十年も前のことです。つまり、鉄くれと同じ物質にすぎません。ただ、この物質は元素ではなく、核酸という複雑な物質であって、普通に生命と考えられている動植物の遺伝子と同じものでできているのです。そうです。遺伝子だけなのです(タンパク質の衣を着ていますが)。遺伝子を生命と思っている人はいません。生命科学は遺伝子を簡単に機械で合成したりしています。単にプラスティックを作ることと変わりません。

 ただ、ウイルスは、生命の遺伝子と同じ物質ですから、生命の細胞に入り込むと、細胞内の機械(細胞は工場ですのでいろいろな機械が入っています)によって、コピーされます。ただ、細胞内に本来ある自己の核酸(遺伝子)ではないので、コピー停止命令がありません(ガンもそうです。自分の遺伝子が傷ついて停止命令が破損した遺伝子です)。で、どんどんと無限にコピーされた結果、細胞内はウィルスで充満し、ついには破裂して細胞は死んでしまいます。これが体中の細胞で起きれば、その生命体そのものが死に至ります。ウイルス自体は成長も生殖もしないと言う意味では生命ではないのでしょうが、増殖は他の生命体が知らずにコピーしてしまうという方法で行われます。一見、生命のような現象でもあります。つまり、生命と非生命の境界に属するのです。

 この考えを敷衍すれば、成長し、生殖という形で増殖することに意義があるのかという事になります。クローンというものを考えてみましょう。これは親子ではありません・・・少なくとも高等生物ではそうです。子の遺伝子(という物質)はオスとメスの遺伝子の混合物であり、片方の親の遺伝子と完全に同じものではありません。つまり、遺伝子が完全に同じ個体は子ではなくクローンというのです。あなたの皮膚の細胞をiPS技術で卵と同じく何にでも変化できる万能な幹細胞にリセットして(卵は、一つの細胞ですが、分裂していくとき、角膜のような透明な細胞になったり、筋肉になったりと何にでも分化できます)、そこから成長させれば、あなたがもう一人できます。あなたの皮膚から作ったコピーですから完全に同じものです。これが、母親のお腹の中で自然に起きた場合(卵が2個に分裂した時に分離してしまう現象です。それぞれから育っていきます)、一卵性双生児というわけです。もう一人の自分がいるのなら、一人が死んだとしても、その死んだ一人は納得するかという問題があります。

 一卵性双生児の兄は、自分とまったく同じ物質である弟がいるから自分は死んでも構わないと思うかと言えば思わないでしょう。上述のiPS技術が更に進歩すれば、不死になれると誤解する人がいるようです。自分の皮膚を冷凍しておいて、100年後か200年後、再生技術が発達した時にその皮膚から生まれ変わろうというわけですが、これは無意味ですね。一卵性双生児問題を考えればすぐわかるでしょう。「自己」とは、遺伝子の問題ではなく、「生きてきた記憶」の問題なのです。「あなたの一生の歴史」があなたであって、あなたの遺伝子があなたではないのです。それは一つの小さな条件にすぎません。さて、生命は単なる化学物質にすぎないと考えると、生命が生命としての尊厳を感じるには、それを感じる能力があるという条件がいるのでしょうね。考えたら、デカルトは「われ思う、故に、我在り」と言っていますが、単純な物質と尊厳的な生命を分ける特徴はこれではないかと思います。アメーバや細菌や昆虫はこの範疇には入らないでしょう。

 肉食はしないという人は、おそらく動物は生命だからという理由ではないかとおもいますが、それでも植物という生命は食べるのです。残念ながら高等動物は酸素や水素や炭素から自分の体の構成物を作る能力を持っていないので、他の生命を食べるよりしかたないのです。しかし、どうして酸素や水素なら食べても良いと思うのでしょう?生命体と同じ物質なのに。

 そういえば、仏教も無駄な殺生は禁じても、自分が生きるために良く拝んで他の生命を食べることは禁じていないでしょうね。それにしても、踊り食いとか、生き作りなどという残酷な料理は誰が考えたものでしょう。冷酷、冷血な人たちなのでしょう。我が家ではテレビの料理や旅番組などでそのような場面があるとすぐにチャンネルを変えてしまいます。その残酷さを喜ぶ連中に怒りを感じながら。

 さて、虫や魚は大量の卵を産みます。その中から2匹だけが成長し2匹の子をなせば、単純再生産で絶滅することはありません。2匹を残すために、何千引き、何万匹も子をつくるのです。それは死を予定された生命と言えますが、さて、生命の尊厳という意味で、それらの「物質」に意味があるのでしょうか。これは、そう感じる人にはあるでしょうし、そう考えない人にはないということしか言えない、科学ではなく、思想の問題なのでしょう。もし、あらゆる生命に尊厳があるとすれば、赤痢菌も肺炎菌も殺してはいけない。半生命かもしれないエボラ出血熱ウィルスも殺しては(エボラを殺すってどういう意味?生きている訳でもないのに。増殖させないということでしょう)いけないということになり、菜食主義者は植物も食べてはいけないということになるかもしれません。

 という訳で、大量発生して部屋の中を跳び回っているカマドウマの退治をしているのです。なんとなくすっきりはしませんが。科学者とは面倒なものですね。