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新・学問のすすめ: 成金と呼ばれないために:綺麗ごとではない現実に対処するために

 福沢諭吉に言われるまでもなく、学問は人に教養を与え、人生を有意義にしてくれるものです。人間の精神を豊かにする唯一の手段です。現実の世界では、学問のすすめは学歴取得のすすめでもあります。学歴不要論などという奇を衒った主張が一時されたことがありますが、人間という物は区別あるいは差別をしたがる生き物。これを無くすなどという理想は下衆な人類の世界ではあくまで理想=空想であって、これは叶わないのです。そして、現代社会にあって、人間精神を蝕むものは学歴がないことなのです。

 

 学歴がないために、その補償行為として金に走り、金色の夜叉のようになる人々もいます。いささか旧聞に属しますが、高等小学校しか出ていなかった田中角栄などはその典型でしょう。頭は良さそうなのに、結局は金で晩節を汚しました。しかし、いくら金を稼いでも、いや、金が貯まるほどに学歴への餓えは大きくなるばかりです。金ができると名誉が欲しくなると言う言い方がされます。国会議員になるのは、かつては名誉だったかもしれませんが、名誉が達成されても学歴へのカツエ、劣等感は消えません。時を失えば二度とは手に入らないものだからでしょう。

 

 金は何時でも稼げますが、意味のある学歴ばかりは人生のある一時期でないと取得できません。晩年に取得したとしても、人格形成時に取得した学歴でないのでその人の人となりとは関係がなく、金色夜叉のような、金一辺倒な醜い性格のままであったりして何の意味もなさないのです。若い時期から豊かな精神性を持ち、広い教養を形成していないからです。所謂、成金では高い学歴を持つ人々のコミュニティに入れないのです。金さえだせば入れるクラブはあるでしょうが、それは拝金主義の貧しい精神の人々の集まりにすぎず、劣等感というかつえはおさまりません。その結果、どこまでも飽くことなく金、金、金となるのです。つい最近も「一億円などは自分にとって紙切れのようなものだ」と言いながら、それにしては高々6000万円を若い女に盗まれたと騒いでいた人がいました。典型的な成金根性でした。

 

 成金趣味というものがあります。一目見てわかります。いかにも、「俺は金をもっているんだぞ~」という主張をしている持ち物、家屋、車などで周りを固めています。何といいますか、品が悪いのです。教養のなさ、精神性の低さを金で補償しようとしているのですが、そうすればするほど、劣等感に苛まれ、虚しい気持ちになる事になるのでしょう。豊臣秀吉が死ぬまでそうでした。武家貴族である家康と根底から異なる点です。

 

 土光敏夫氏の住んでいた家は成金とは対極にあった事は有名です。

土光敏夫 無私の心
土光敏夫石川島播磨重工業東芝の社長のあと経団連会長や第2臨調会長と次々難しい仕事を引き受け実績を残す一方、その質素な生活 ... 土光の住んでいた家は日本が太平洋戦争に突入する寸前に建てられたものでわずか3部屋しかない平家建て。」

 ーー佐々木常夫オフィシャルWebサイトより

 これがこのコミュニティに属する人々の精神です。自分自身に、意識することもなく絶対の自信を持っているので、金に頼る、金を持っていることをひけらかし世間に認めてもらう、そのような必要を感じないのです。が、そのこと自体も意識していません。敢えて分析的に考える機会でもないとこんなことは意識もされません

 

 新撰組はなぜ強かったかという番組をBSでやっていました。元々は八王子かその辺りの農民で、武士への憧れが強い連中でした。武士は武士道の意識が無意識裡にありますから、切り合いになっても一対一の勝負をするが、新撰組には3人で一人を取り囲めという掟があったということでした。「名こそ惜しけれ」という武士道とはまったく相容れません。尤も、Dr.Yはこの他にも要因があったと思っています。武士は、生まれついての武士なので、それを社会に認めてもらいたいなどという意識は生まれようもありません。幕末の動乱の中で百姓が武士になりたいという願望は、新撰組にあっては最終目標なのです。その為には成果を上げなければなりません。この意識が根底にあってこそ、3:1戦術が生まれるのです。高学歴者はまさに武士なので、自分を社会に認めてもらうために必要以上に自分をひけらかすことはしないで済みます。一方、低学歴者が社会に押し出すには、金が最も簡単な手段なので成金根性が生まれるのでしょう。

 

 勿論、高学歴は精神性の問題だけではなく現実の問題として人生を楽な物にしてくれます。売れっ子のタレントやスポーツ選手、あるいは宝くじにあたったように儲かっている小企業のオーナの末路がどんなものか。死屍累々と言って良いでしょう。稼げるのは一部の例外を除いて、数年から十数年でしょう。飽きっぽい大衆の人気は長くは続きません。体力もそうです。ビジネスシーンは刻々と変わっていきます。大手でさえダイエーが潰れ、サンヨーが潰れ、山一證券が潰れ、シャープが外資に買われそうになっています。その後は、どうやって食べているのだろうという疑問が湧きます。覚せい剤に手を染めてしまうストレスを受けもするでしょう。高学歴はーー偏差値75以上のことですーー一時的な華やかさはありませんが、長期安定政権みたいなもので死ぬまで食うに困ることはありません。勿論、一部の例外もあるでしょうが、概ねの話です。

 

 安定した生活を確保し、品性低い人間にならないために、少なくとも、高校を終えるまでに一定の学問を身につけておく必要があります。そうすれば、然るべき大学に進み、然るべきコミュニティに属すことができます。Dr.Yはそんなコミュニティで生きてきたので、世の中はどこも、誰も、こんなもの--今属するコミュニティの品質--だと思っていました。「思っていました」というと意識しているように聞こえますが、言いようがないのでそう表現したまでで、思っても居ませんでした。なにしろ、自分の属するコミュニティとは違う他の世界があるなどとは思ってもいなかったからです。無意識と言ったらよいのでしょうか。分かりやすく言えば偏差値75以上の人しかそのコミュニティには居ません。薄いながら、自分のコミュニティに属さない人々との関わりがある、街中、電車の中、車の運転中、などで無教養な馬鹿たちが何か馬鹿げた行為をしてもーー歩道を車で走るなどという大それたことではなく、些細な事です。車で曲がってからウィンカーをだすなどーー自分も、偶には誤って/うっかりしてそんなことをすることがあるので、すべてのバカな現象は、皆がちょっとうっかりしていただけなんだと思っていました。ところが、ある時、自分の属するコミュニティとは異なるコミュニティと一時的に深く関わることななり、仰天しました。あれは、偶々間違って行われた行為ではなく、この無教養・低学歴なコミュニティでは、教養が無いが故に常習的に行われている行為だったのだと思い至ったのです。こんな機会でもなければ、死ぬまで知らずに済んだ世界でした。知って良かったかと言えば、敢えて知る必要もない世界なのでストレスになる分、良くはなかったと思っています。たとえば、堅気の人がヤクザの世界に関わるようなものです。知る必要のない世界でしょう。無教養な世界もそうなのです。

 勿論、戦前、戦後のしばらくまでは日本は貧しい国だったので、品性高く清廉潔白で学歴の低い人々は普通にいました。しかし、平成の時代には偏差値40以下の大学でも文科省から奨学金が出ています。関東なら東大、関西なら京大に入学すればその他の奨学金や割の良いバイトがあり自活できる環境は整っています。

 どちらの世界に属すかは若い時学問するか否かで決まるのです。