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論理的判決と大岡裁き

 大岡裁きというと、法律の枠を超えた恣意的な判決の感じがします。そうではないことを以下で論じます。

 下級裁判所は法令の条文にある通り、そこからの逸脱を最小限に抑えて判決を出すのでしょう。時に、「市民感覚からみて、どうかな」という判決も出てきます。最高裁大岡裁きができますが、これはなぜなのでしょうか。

 論理というものの性質を知れば、この仕組みが良く分かります。論理とは、前提となる、なんと言ったら分かりやすいのか、普通は公理というのですが、ワケワカですね。昔風に「真理:真実であるもの」としておきましょうか。そこから推論規則を使って導かれたものも「真理」としましょう。導かれた「真理」は公理に対して定理と言います。論理とはそういうものです。

 例えば、
 1.鳥は飛ぶ
 2.雀は鳥です。
 これらを真理とし、推論規則として三段論法--常識的なものです--を使えば、
 3.雀は飛ぶ

という最初の「真理」1,2には無かった新しい「真理」が導かれます。
論理とは、こんなものだとしましょう。

 註:ペンギンは鳥である。これは実は困るのです。例外をうまく処理するのは難しいのです。

 これを裁判に応用すると、前提となる「真理」は法律です。そこに全ての「真理」が書いてあるわけはないので、当然、推論を施して拡張していきます。定理です。これが下級裁判所で行う過程ではないでしょうか。もし、これで全ての裁判が納まるのなら裁判所などは実はいりません。コンピュータに六法全書を始めとする全ての法律を記憶させ、判例も記憶させれば、判決は自動的に瞬時に出てきます。ビッグデータというしょうもない言葉がありますが、法律程度はビッグデータにもならないでしょう。とにかく、法律を「真理」とし、そこから犯罪に相当する判決を導き出す過程が推論です。数学で定理の証明をしたことが無い人は居ないと思いますが、あれとほぼ同じです。推論はもっと単純です。

 一時、このような事を行うコンピュータソフトをエキスパートシステムと呼んだ時代がありました。専門家の代わりをするコンピュータという意味です。人間が行っている思考を、知識と推論で模擬しようとしたのですが、見事に失敗しました。基となる「真理」を全て書き出すことができなかったからです。人間は自分が何を知っているか、一時に全てを言えない存在なのです。知っている事に気づかないということもあります。そんなこんなで何か専門的作業を行うための基礎となる「真理」の集合--知識体系--を作れなかったのです。簡単な例に、感染症の病状や患者の属性などを入力すればどんな抗生剤をどの位、投与するという判断を下すMycinというシステムがありました。実用化されていません。

 法律はすべて条文化されているので、知識体系は全部できている様に思えます。実際のところ、問題はその条文が余りに不完全であるということです。この故に、裁判所が必要になります。下級裁判所で出された判決は、可能な限り条文に合わせていると思いますが、そもそも条文が不備なので、まともな判決にならない場合がありえます。最高裁は、不備な条文である穴を埋めて、時に大岡裁きをしているのではないかと思います。大岡裁きは、見方によれば恣意的な裁きではありますが、不備な条文を完成したとすれば、基となる「真理」から、推論で導き出せる「真理」になっているのでしょう。

 

 似たような話に、「世の中は理屈通りにいかない」という言い方がありますが、この「理屈」は論理でしょう。理屈通りにいかないのは、最初の基となる「真理」がいい加減か、スカスカと言えるほどに不備なものだからでしょう。完全な「真理」の体系、知識体系をつくれば、理屈通りになるでしょう。尤も、そのような体系が作れるかどうかは別問題です。人間自身には作れない可能性、大です。ビッグデータとデープラーニングが鍵になるかもしれません。コンピュータに自動生成させるのです。50年後、100年後にはできるかも知れません。