猫も杓子も大学に行く時代。何の意味があるのでしょう。
最大の理由は多くの中堅以上の企業が「大卒」を就職の応募条件にしている事です。この条件が出た就職氷河期の1990年代中頃から大学進学率が急速に上がり始めいまや50%に至りました。企業にとっては、良いフィルターになっているのです。
ところで、大学で何をどれだけ学べているのでしょうか。ざっと見てみましょう。大学により少しづつ違いますが、誤差ということで。
大学卒業に必要な単位数は、124単位。
1単位 =1時間講義x15回。
実験、スポーツのような頭を使わない科目はこの半分の単位です。無視します。
1時間 = 45分
∴ 1単位 = 45分x15回 = 11.25時間
124単位 = 1395時間
1日8時間労働で、約175日 ≈ 6ヶ月
つまり、大学4年間で実質勉強している時間は6ヶ月。
そりゃそうでしょう。春休みは約2ヶ月。夏休みも約2ヶ月。冬休み約10日。大学が開いているのは約8ヶ月。土日祝日休み。1日の講義は平均2科目ちょっと。
更に、このほぼ半分は、いわゆる教養科目。
語学とか、哲学とか、心理学とか、歴史学、一般化学、一般物理、数学、スポーツなど。
専門科目は、残り半分しか行われません。つまり、たった3ヶ月分。
その為に、4年掛けているのですね。専門学校の方が効率良いでしょう!
では、それでも、なぜ、大学に行くのか?旧帝大しかなかった時代なら、
こんな事だったのでしょう。
「大学はね、一見、とりたてて意味があるように見えないかもしれないけど、人間は朱に交われば赤くなる存在なのだよ。そこにいる教授をはじめとする先生達、先輩や仲間の大学生、それに図書館、実験室、研究施設などの様々な大きな施設、そういうものの総体が自分に影響を与えるんだ。その総体は、高邁な人間性、品格、そして深く広い知性、そういうものを生み出す宝庫だからね。その中に四年間もいれば、人間の基礎的在り方というのかなあ、そんなものが知らず知らずのうちに血となり肉となって身についてくるんだ。門前の小僧習わぬ経を読みじゃないけれど、そこに居るだけで身につくものがあるのだよ。大学は、人間性の深いところに関わっているんだ。勿論、専門性を持ちたいという強い意志があれば、更にその上に、専門知識という目にみえる利益が付いてくるけどね」
なのでしょう。逆に言えば、そういう要素を持たない多くの今の大学は、単に就職の為の資格を取る場所に過ぎないでしょう。
研究職にすすむのなら、旧帝大でなければ意味が薄い。私学の雄と言われる早慶でさえノーベル賞学者は一人も出ていない。そこに要る教員、研究者の資質というより、大学の構造がそうなっていて、研究職に向かないだけのことでしょう。大学の目的、在り方が違うのです。
博士課程へ行くな。地獄だという言い方がされます。就職先がないからでしょう。「ヘミングウェイ論」やってどこの企業が欲しがるでしょう。憲法論やって、博士号をとっても、誰もその人を欲しがりません。
旧帝大の実学系ーー工学、農学、医学、薬学などーーなら博士号は多少の意味があります。