「ない」の証明が悪魔の証明?STAP細胞の非存在証明は不要!

 誰が悪魔の証明などということを言ったのでしょう。例によって、日常生活の上のいい加減な話ですね。特に、あまり頭の良くないマスコミが「悪魔」という言葉に惚れてしまっていい加減な事を言っているのです。

 何かを証明しようとする場合、3つの場合があります:

 1)存在していることの証明

 2)存在していないことの証明

 3)1)も2)もできない=わからない

です。

 科学者が行っていることは1)か2)です。数学以外ではほとんどは1)を追求しています。そうでしょ。「タコのような宇宙人はいない」などを証明した所で人類の役にはまるで立ちません。人類の幸福のためになる何かを科学は証明しようとしているのです。そして、それが証明された時、証明過程を論文にして公表するのです。3)を公表して何になるのでしょう。馬鹿としか言えません。私はSTAP細胞の存在証明を実験しましたが、分かりませんでした・・・こんなこと3歳の子供でも言えますので、論文にはなりません。

 小保方氏の行ったことは1)の証明過程を捏造したことだったと検証委員会は公表したのです。このためには、検証委員会は、2)を証明する必要はありません。1)ができていない(嘘であった)と検証すれば十分なのです

 したがって、現状では1)も2)も行われておらず、3)の状態=「わからない」なのです。それにしてもマスコミの文系の人々の頭というのは不可解なのですが、なぜ、3)という場合を考えられないのでしょうか。不可思議です。1)でなければ2)が必要だと思い込んでいるような話し方です。余程に頭が悪いのでしょう。神様が手捻りで作っていた大脳新皮質を、途中で面倒になってもういいやと粗悪品で出してしまった。そんな粗雑に作られた脳のようです。

 そういうマスコミのために「(STAP細胞は)ほぼ無い」と委員長は苦渋の選択で表現したのです。本来、科学に「ほぼ」などありません。不思議なことに「ほぼ無いというのなら、少しはあるのですか?つまりあるかないかで言えば、あるのですね」という突っ込みはありませんでした。理系の会合ではこんな発言をしたら噴飯物で相手にされません。論文を書くとき、「ほぼ」とか「だいたい」のような曖昧な言葉は使ってはいけない「97%」のような定量的表現にせよと、まともな大学なら学生は厳しく仕込まれます。

 これまた不思議なことに、存在していることの証明は実例を一つ見つければそれでよいので簡単だと思いこんでもいるようです。自分の頭で考えないのでしょうか?

 考えてみてください。そうではないのです。ゲーデル不完全性定理は「証明も否定もできない命題が存在する」定理ですが、これを理解できる人は相当な頭脳の人で、ほとんどの人には証明を読み進むことさえできません。しかも、この命題を具体的な形では表現できないのです。隔靴掻痒の思いがありますが、存在証明はできても、それはこれだとは言えないのですね。存在証明も実は相当に難しいのです。

人工知能とは? - dr-yokohamanerのブログ

 存在していないことの証明は、場合が無限にある場合、無限の場合を全部調べることはできないので証明が難しいと言われるのでしょう。

 フェルマーの最終定理xn + yn = znとなる 自然数 (x, y, z) の組が自然数nが3以上において存在しない証明はできていますし、アーベルの定理は、五次以上の代数方程式には一般的な解法は存在しないことを証明しています。

 数学ではなく日常的な話題の「人間のような知的宇宙人は存在しない」は宇宙全部を探さなければならず、それは人類の能力では難しいのではなく、不可能です。それだけのことです。不可能なことを悪魔の証明と言ったところで、意味はありません。

 STAP細胞の非存在証明は悪魔の証明でもなんでもなく、する必要がないだけのことです。といいますか、そんな馬鹿な証明を試みる人はありませんね。存在証明こそ意味があるのです。10年後に皮膚細胞が何かの刺激で万能幹細胞に変身することを誰かが実証するかもしれませんが、それでやっと存在が証明できたということになるだけの事です。しかし、その研究者は決してそれにSTAP細胞という名はつけないでしょう。

 ですから、STAp細胞を小保方氏の論文やレシピ、コツによって作ることはできなかった。それらの方法で作られるものをSTAP細胞と呼ぶと定義されているのだからSTAP細胞は存在しないとは、言えます。つまり製造方法で定義した場合、非存在を証明したとすることはできます。意味はありませんが。マスコミの頭で理解できるようにするにはそうとでも言うしかないかも知れません。

 「捏造の科学者  STAP細胞事件」 単行本  2015/1/7 という本の発刊のニュースの中の話題でした。

 

 ところで、余談ですが、背理法という強力な証明法があります。

 背理法:あることを直接に証明できない場合、その否定が証明できるとすると矛盾が起きることを示す証明法です。背理法が成立するためには排中律が成り立っていることが前提になります。つまり、Aであるか、Aでないかのどちらかでなければなりません。例えば、自然数は偶数であるか、偶数でないかのどちらかです。その間の数はされます。現にそんな数は自然数にはありません。排中律が成り立つとき、背理法が使えます。数学の非存在証明はこの方法が使われます。

 しかし、日常的な話題では排中律はあまり成り立ちません。「女性は美人か、美人でないかどちらかだ」などはその典型ですね。Dr.が常々疑っているのは「私は数学や物理がわからないので文系です」のような言い方です。理系でないから文系だとでも言いたいような口調ですが、そういう人は実は文系の素養もありません。これでは文系=馬鹿系と言っているようなものでしょう。排中律など成り立っておらず、本当は、理系、文系、芸術系・・・x系、そして最後に、何の素養もない無能系でしょう(勿論、これは理系と非理系(文系、芸術系・・・)と分類できますが、数学、物理、化学は楽々と理解できるが哲学の方がもっと好きだという分類不能の人もいるので、そうはいかないでしょう。つまりは理系などの定義が曖昧なのです。先の「美人」もそうです)。文系というのなら、法学や経済学、文学や哲学について基本的素養と持論をもって滔々と論じてもらいたいものです。マスコミのあれはなんというのでしょうか、上の記事はミヤネヤとかいう番組を見ていて感じたものですが、そう、キャスターかな?は文系でもなんでもなく、単なる酒の場の与太話をしているだけの気楽な稼業ですね。

 さて、しかし、背理法はAであることを直接に証明していないので、認めないという学派もあります。直観主義と言われます。背理法の証明は直観的に納得できないのですね。なんだか隔靴掻痒の思いがします。理屈ではわかるが、本当かい?という思いが残るのです。

 もう、こうなるとDr.はヴィトゲンシュタインに救いを求めます。

論理哲学論考」の最終項(だったかな?):
「語りえぬことについては、沈黙しなければならぬ。」